行き詰まっても先輩に質問するな

更新日:2025/12/22 3:14
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Rimoでソフトウェアエンジニアをしている宮﨑です。

Rimo合同会社 アドベントカレンダーのDay22を担当します。

今日は、普段自分が業務上でほとんど人に質問をしない理由をお話しします。

質問はしない

「15分考えて分からなかったらすぐに質問してください」

自分宛ではないが、時折このような指示を耳にすることがある。エンジニア相手であればこのような指示をすること自体一般的であるし、言ったことや言われたことがある人も多いに違いない。この指示の意図は一般的に以下のように言語化されると思われる。

下手に時間を浪費されるよりも聞いてもらった方が仕事が先に進む

これ自体は至極まっとうな理由に思えるし、実際以下のような場面では有効な手段になると思っている。

  • 機械的な作業が必要とされるような場合

基本的に業務の中で決められた機械的な作業しか行わないのであれば早急に聞く方が良いだろう。その機械的な作業の中に自分の判断が介在する余地はないからだ。

  • 専門的な知識が必要とされるような場合

自分の専門と異なる領域、もしくは専門は同じだが必要とされる知識量・練度に圧倒的な差がある場合は迷わず質問すべきである。短時間でその差を埋める方法は到底存在しえないからだ。

では、一般的なエンジニアの業務においてこれらに当てはまる場合はどれほどあるだろうか?あなたがエンジニアではなかったとしても関係のない話ではない。

質問することへの懐疑心

質問はしない。小さいころからあまり質問するタイプではなかったが、この考えが根付いたのは中学生の頃だ。

「先生!質問です!」

英語の授業中によく質問する生徒は大体固定化されていた。その生徒はこう質問する。

「先生!この単語の意味が分からないです。」

先生はこの質問に対してこう回答する。

「これは***という意味です。」

自分は毎回このやり取りを聞くたびになんて阿保らしいやり取りなんだと辟易していた。英語の授業では辞書を持参するのが決まりだ。自分で辞書をひけばすぐに解決することをわざわざ聞くというスタンスが自分には理解できなかった。そして、このような生徒の方が授業に前向きだと評価されることも納得のできない事実であった。

「他にも分からない子がいるだろうから、皆の前で質問することは意味がある。」

先生にはそのように言われたが、その考えは正しいかもしれないけれど、やはり自分の中では認められない。この違和感に納得がいくのは大学生になってからだった。

質問が意味するもの

大学生になって家庭教師を始めた。

嬉しいことにどの生徒も2年以上お付き合いをしたため、6年間、しかも最後の3年間は週4・5で稼働したが、それでも見てあげられた生徒は3人だけだ。ところが、生徒の勉強に対する姿勢は年月や勉強内容によって変化し、たった3人でも様々な側面を見ることになる。

「分からない。」

そう言われて時計を見るとまだ2分しかたっていないことに気づく。数Ⅰの問題を解いてもらっているのだが、生徒の意識はそぞろだ。落ち着きのない様子で問題を解き始めたかと思えばすぐにこの言葉を発してくる。何が分からないのかと聞いても、全部、と答えるのだ。

この生徒がこの問題に対してやる気がないのは目に見えて分かっているのだが、ここで解説しても何も意味がない。そう感じて、

「もう少しやってみて。」

と言うしかないのだ。

ところが、数Aの図形問題に入ると様子が変わった。その生徒は明らかに先ほどよりも前のめりな様子で問題に取り組み始めた。しばらく進めると難しい問題が出てくる。生徒の集中力は続いているが、しばらく同じ問題で詰まっていて、今のアプローチではなかなか無理そうだ。そう感じた自分はヒントをあげようとして口を挟むのだが、

「ちょっと待って!」

そう言って自分の解説をはねのけて取り組もうとする。そうしてしばらくすると、苦虫を噛み潰したような顔をして、

「ここが分からない...」

そうぼそっとつぶやくのだ。

同じ生徒でも勉強の取り組み方にこれだけの違いが出てくるのはその主体性にある。彼は数Ⅰのその分野には苦手意識があってあまりやる気が起こらない。一方で、数Aの図形問題は視覚的にわかりやすく取り組みやすいため意欲が高く、その結果、質問をせずともできるだけ自分で解決したいという心理が働くのだ。

質問の内容にも差が出てくる。やる気がない場合には「全部分からない」という抽象度の高い質問であったのに対し、やる気がある場合には「ここが分からない」とより具体性を持った形で質問がされる。

中学生のころ、自分が感じていた質問に対する違和感はこの主体性に他ならない。単語の意味についての質問は、授業を受けるということには主体性があるけれども、こと英語を学ぶということにおいて主体性があるかは懐疑的だ。少なくとも自分はそう感じている。

質問をしないという選択肢を持つ

質問をするという行動自体悪いものではない。ところが、質問をして解決する場合には、主体性をもってその問題に取り組んで自分自身の力で解決したときと大きく異なる意味を持ち、時間とのトレードオフとして自分の成長を捨てているとみなした方がいいだろう。

【粘る】

これは自分が特に大事にしているスタンスであり、これによって泥臭くも一定の成果を担保してきた。分からなくてもうまくいかなくても、ふざけんな、なにくそ、と思いながら高い壁にへばりついて、どうにかこれを突破する方法があると信じて模索を繰り返す。それを繰り返すことでどこかでその壁の向こう側に到達することができ、それが自分の自信となって次の成長へつながると信じている。

今まで散々粘って解決した過去があるから、新しい挑戦にも臆さず進めるし、その経験からこの期間でどのくらいまでなら実現できそうで、これ以上はできないだろうという肌感覚が身についてくる。

質問をしないという選択を取ることで、自分がより主体性をもってその問題に取り組むようになると自分は思っている。

成果を出すために

質問をしない・粘る・自分で解決するということが、自分の成長に大きく寄与してきたと感じているのだが、一方で、そのように一つの問題に詰まっていては、結果、全く成果が出せないといった問題に陥る可能性があることも考慮しなければならない。

そこで、自分がこの問題にどのようにアプローチしているかを2つだけ紹介しておく。これには様々な方法があるはずなので、自分自身に合う方法を見つけていただきたい。

  • 難易度の異なるタスクを複数持つ

これは非常に簡単なアプローチで、難易度の高い問題に常に向き合って悶々としていても解決しない場合は多い。であれば、難易度の異なるタスクを並行してこなすことで、気分転換になる上に、仕事が進んでいるという感覚が持てる。実際に仕事が進んでいるので成果はゼロではなくなる。

自分は簡単な差し込みタスクはなるべくその場で終わらせるように心がけている。何かをした感覚が自分の中に残るし、タスクが簡単であっても速度が速いというそれだけで付加価値とみなされるのがいい点だ。

  • 複数のアプローチを試して行き詰まったと感じたらその日はやめる

人間物事に詰まっている場合は、近視眼的になりがちだ。

昨日の自分はどうしてこんな些細なことにきづかなかったのか…

そう感じたことも一度や二度ではない。自分では複数のアプローチを試しているつもりでも、その前提から間違っていたり、すべて同じ側面から物事を見てしまっていたりするものだ。そうして、日を変えて、新たな気持ちで問題に取り組むことで見えてくるものがある。

最後に

ここまで、質問をしない理由を述べてきたが、本当に行き詰まる時が訪れないわけではない。しかし、ここで述べてきたスタンスで物事に取り組んでいれば、質問をするという時点ですでに自分の血肉となる経験は得られているだろう。

質問をしないという選択を取ることで、自分がより主体性をもってその問題に取り組むようになる

まずは形からでもいいので取り組んでほしい。


Day23の記事はこちら▼

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